牧師 田崎敏明の、インターネット教会

還暦牧師のブログ。共に励まし合うためのインターネット教会です。

神の一番の関心事は、あなたのことなのだ

わたしの愛の中にとどまりなさい。
イエス・キリスト


私たちは、よく、
「日本人は…」「アメリカ人は…」「韓国人は…」
という言い方をしたりもする。
しかしそれは、よくよく考えてみれば、
あまりにも総体的な、乱暴な言い方でもある。
同じ日本人でも、考え方は千差万別なのだ。
何事も、十把一絡げにしてはいけない。


神が地上を見られる時に、
そこに国境はなく、人間が作った団体の枠もない。
キリスト教にも、
カトリックとプロテスタントなどや、
教団・教派の枠組みもあるが、
そんなものは、人が作ったもの。
神の目には、そんな枠線など映らない。
私たちも、
どこの教派が一番正しいとか、
お前のところの教えは間違っているとか、
そんなつまらぬことに時間を費やさないことだ。


神は、どこかの宗教団体とコンタクトを取られるのではない。
神は、国民とコンタクトを取られるのでもない。
神は、あなた個人とコンタクトを取りたいと
望まれている方なのだ。


神の一番の感心事は、実に、あなたのことなのだ。

「悪口」ばかり言う人は「圏外」にしたら良い

人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。
(聖書)


およそ、人様から悪口を言われない人というのは、
この世に一人としていないものだ。
誰だって、言われて、いい気持ちになるはずはない。
気にし出すと、心が暗くなって来る。


私のように、もうこの年になると、
「はいはい」とスルーできる術も心得て来る。


口を開けば、人の悪口ばかりを言う人というのは、
実は劣等感が人一倍強い人なので、
周りの人達の悪口を言うことで、
『自分は正しい』と、猛烈にアピールしたいのだ。


また、そういう人は、
寂しいので(悪口ばかり言うから仲間が減るのだが)
人の悪口を言うことで、自分に味方してくれる
仲作りをしたいのだ…


悪口ばかりを言う人は、実はかわいそうな人なのだ。


そして、心ある人達、優しい人たちは、
そんな人の悪口に、
表面では一応頷いてはみせても、
『この人は人の悪口ばかり言う人。
影では、この私の悪口も言っている人』
とちゃんと分かって接しているものだ。


だから、もしあなたが
その悪口の攻撃先となっても、気にしないが良い。
あなたに対する悪口を信じる人は少ないものだ。
気にするようなことではないのだ。


悪口ばかり言う人は、そうそう変わるものではない。
悪口を言う人に、悪口でお返しせず、
そっと距離をとるのが最善なのだ。

人は、「肉体」「心」「霊」の3つを併せ持っている。

人というものは、
「肉体」
「心」
「霊」
(魂)
の3つを併せ持つ存在です。

心と霊との違いは、簡単に言うと、
心は、日常のことを考える
目に見えない世界での働きで、
霊は永遠の世界、そして神様を思う
目に見えない世界での働きと
言えるかもしれません。
 


科学者パスカルは、
「人の心には神様の形をした空洞があって、
その空洞は神様にしか埋めることができない」

と語っています。


イエス・キリストは、
「わたしの語ったことばは霊である」
と語られました。


イエス・キリストの言葉は、私たちの霊を強くします。
そしてまたこの目に見える世界は、
目に見えない世界から生ま出るものなので、
霊が強くされると、
目に見える世界も変わってくるのです。
人に対する憎しみ、恨み、劣等感、悪口…
そういうものから解放されて行きます。

「神様はどこにおられますか?」

「神様はどこにいらっしゃるんですか?」


と聞かれたら、私はこう答えるんだ。
 
「神様は、何もないところにいらつしゃる


てね。


神様は、スマホやPCの中にはおられない。
神様は、人々の悪口合戦の中にもおられない。

神様は、何もないところにおられる。


私が、ただ跪いて、
心静かにする時、
神様は、
そこにご自身を現してくださる。

普段の言葉で聖書を語る

キリスト教会やクリスチャンの間だけで
頻繁に使用される、言うならば
"キリスト教専門用語"
というものも、実に沢山あります。
 
私は個人的に、
そういうキリスト教専門用語いっさいなしで、
この世の中で実際に使用されているごく普通の言葉で、
聖書の話をするように心がけています。


そのことを始めてからもう10数年経ちますので、
ずいぶんと普通の言葉で、
分かり易く語ることができるようになって来ました。
しかし、それでも刷り込まれたものって凄いですね。
今でもふと専門用語を使ってしまうことがあります。

たとえば
「イエス様が導いてくださる」
なども、よくよく考えたら「導く」という言葉も、
普通の生活の中で使うことは、ほとんどありませんね。
先週の礼拝会の中で皆といろいろと意見を出し合い、
「導く」は「案内」とするという
言葉等に代えることにしました。


またクリスチャンはよく
「人を祝福する」
という言い方をします。とても素敵な行為です。
でも「祝福する」と言う言葉も、
通常の生活では使用しません。
これも、今日の礼拝会の中で、
「人の幸せを祈る」
と言う言葉が妥当かなぁということになりました。


もちろん、そんなことは別にどうでもいう方は、
それで勿論いいのです。これは私の場合ですから。
 田崎敏明、修行の道は、まだまだ続く…