牧師・田崎 敏明の信仰徒然

初めて聞いた人にも分かる言葉で、福音を伝える。
キリスト教会用語ではなく、
普通の日本語で福音を伝える働 きをしております。ぜひご支援ください!

そんな働きの中で感じたことを、ありのまま綴っております。

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母のこと

私の母は86歳である。
幸い大きな病もなく、口達者である。


今だに母からは
「ちゃんと生活しているのか」
「少しは人様のお役に立っているのか」
と言われる敏明ちゃんも、もう60歳なのだが(笑)


遠くの東北にいた頃、よく母に手紙を書いた。
宛名に「田崎キミ子 様」と書いている時に、
ふと思った。
母も子供の頃は、友達から
「キミちゃん」って呼ばれて、
山野を走り回っていたんだろうなぁ。
兄弟や親戚からは今だに
「キミちゃん」と呼ばれているようだし。


子というものは、母の若き日々のことを、
あまり知らない。その人生をあまり知らない。
知らないところで苦労し、苦闘し、涙し、
育ててくれたのだとうことだけは分かる。


母の、家族の、親戚の、先人の、
いろんな人たちのお蔭で今生かされている。


人様の悪口ばかり言ってないで、
人様への感謝の言葉を口にするようにしたいものだ。

聖書の教えは「さばいてはいけない」であり「さばくべきである」である。

聖書には、
「さばいてはいけない」
というイエス様の言葉があり、
一方、その聖書には、
人を正しくさばいたり、
責めたりすることも必要と書いてあります。

さてさて、どちらが正しいのですか?
そうです、もちろん両方正しいのです。


それは全く矛盾するものではありません。
クリスチャンならばその文脈に沿って、
それぞれが言っている意味を
知ることができるでしょう。


正しいさばきもある。
それは本当に愛から出たさばきや責めです。
一方、正しくないさばきもある。
それは自分の優越感、逆に劣等感から出たさばき。
自分を義とするための独善的なさばき。
高慢から出るさばき…


自分のさばきがどちらなのかは、
実は、その人自身が胸に手を当てれば、
自分でよく分かるはずです。


また、実は他者も、
あなたがどちらなのか、
じっと観察しているものです。


どうなんでしょうか、
本当に愛をもってさばける人って、
そうそうはいない気はしますが。
私の場合は、まだまだ人様を
正しくさばけるほどの
愛を持っていない気がする。


よくよく気をつけたい事柄ですね。

「牧師の論理」と「信徒の論理」の狭間で

ある時、何かの本で、


「牧師の論理」と「信徒の論理」
という言葉に出会いました。


牧師は一般的に、「教会形成」志向です。
そのために信徒の方々にどう奉仕してもらうか
という考えをするでしょう。


信徒は一般的に、一週間社会の中で疲れ、
日曜日「癒し」「休息」を求めて礼拝に集います。


そのある意味当然とも言える、論理の差が、
いろいろな問題を起こす要因にもなります。


「牧師の論理」と「信徒の論理」も、
どちらも聖書の御言葉から発しているものです。
どちらがどうのと一概に言えるものでは
決してありません。
そこには、お互いの論理の和合が必要です。


その原動力は…まさに「愛」でしょう。
教会は、愛の学習塾なのでしょう。


そういうことは何も教会だけでなく、
全ての人の集まりで大切なことでしょう。


私は今、そのことを、
いろいろなことを通して発信しています。
これからも続けていきたいと願っています。

片方聞いて沙汰するな。

「僕のお父さんは、
桃太郎というやつに殺されました」
(鬼の子)


両者には両者の言い分と、
それぞれの立場と状況というものがあるもの。
両者の意見を聞かずに判断するのは
片手落ち。