延岡東海(とうみ)教会と、訪問牧師・田崎敏明HP

宮崎県延岡市のキリスト教会・延岡東海教会のHP 「訪問牧師」田崎が書いています。病院、施設、家庭、無牧の教会での説教奉仕、お祈り、相談等々、お呼びいただければ、どこでもお伺いいたします。

人をやっつけることばかり考えている情けない大人たちよ、子ども達に学べ!

【保育園にて】


★男の子が紙で剣を作った。
先生
 「それで誰をやっつけるの!」
 男の子
「やっつけるんじゃない。
これで○○ちゃんを守るんだっ」


★女の子
 「ねぇ、ねぇ、先生はどんなお家がいい?」
 先生
 「プールがあって、広いお部屋があって…」
 女の子
「わたしはね、
好きな人といっしょのおうちがいい」

人をやっつけることで、
自己存在の意味を得ようとする大人たちよ。
人を生かすことに自己存在の意味を見出そうぜ。

聖書の「いつも喜んでいなさい」の意味

聖書には、
 「いつも喜んでいなさい」
と書いてあります。


しかし、それは決して、
なんでもかんでも喜んでいなさいとか、
いつもニコニコしていなさいとか、
そういうことではない。

悲しいことが起こったら、

ちゃんと 悲しまなければいけない。
 
泣きたい時は、ちゃんと泣かないと、
癒しにつながらない。
苦しんでいる人がいたら、 一緒に悩んであげたい。


「いつも喜ぶ」とは、
 悲しみながらも、もだえ悩みながらも、
 心の奥底にある「喜び」のことなのだ。


苦しくや悲しみも多いこの人生だけど、
イエス・キリストがいつも共におられる。
そのことのゆえに、
いつも心の奥底で喜ぶことが出来るのだ。
ここに信仰の真骨頂がある!

自分は神様の恵みによって救われながら、他人に対しては厳しく断罪する人達

「神は、古い契約に変わる新しい契約について
語っておられるのです。古いものは過去のものとなり、
消え去って行きます。」 (ヘブル人への手紙8:13)


私たちは旧約聖書にあるさまざまな「律法」(規則)
を守ることによって救われるのではありません。
その方法では誰一人救われなかったと聖書は言います。


その方法ではなく、イエス様が渡したちの罪の罰を
十字架で受けてくださったことによって、
その恵みにより恵みによって救われたのです。
私たちを縛っていた「律法」の縄目が解かれ、
解放されたのです。
しかし、せっかく解いてもらったその縄で、
また自分を縛り始めたり、
はたまたその縄で他人を縛っている信仰者はいませんか?

男は、過去の恋をそれぞれ泣く泣く「名前をつけて保存」し、
女性は新しい恋を、過去の恋の上に
「上書き保存」らしい。過去の男は、その瞬間…
消え去るっ?! 分かり易っ、けど恐っ!!(笑)


神様は私たちの罪を「名前をつけて保存」ではなくし、
イエス・キリスト様の十字架の下に、
私たちの罪は消し去られた。


聖書にある「全てのことについて感謝しなさい」は、何でもかんでも感謝することとは違う。

聖書には
「いつも喜んでいなさぃ。絶えず祈りなさい。
全てのことについて感謝しなさい」

もちろんこれは、
なんでもかんでも100%感謝しなさい
ということではないと思う。
感謝できないことだって、世の中には多々ある。


もしそうなら、私たちは
「絶えず24時間お祈りしないといけない」
ことになるし、
「いつも一日中ニコニコして
喜んでないといけないい」
ことになる。


「いつも喜んでいなさぃ。絶えず祈りなさい。
全てのことについて感謝しなさい」
とは、そういう意味ではないと思う。
聖書の御言葉も柔らかな心で読むことが
寛容なのだとつくつぐ思う。


「いつも」「絶えず」「全てのことに」は、
強要ではなく心の方向性を示すのだと思う。
たとえば「絶えず」は、
途切れることない連続性ではなく、
途切れつつも続ける連続性だと思う。
そうすると、
感謝すべきことにちゃんと感謝する。
ああだこうだ言う前にまずお祈りする。
たとい悲しみの時であっても、
心の底にある信仰による喜びによって支えられる
生活になって来るものなのだ。


人はみ~んな罪人だ。

こんな凄い時代だ。
心の中で何かを思っただけで、それが目の前に現れる、
そんな技術が開発されても、
おかしくないのかもしれない。


私の心の中が、現実に現れる…
いやいや、それ便利そうだけど…超やばい!!(笑)


人はみ~んな罪人だ。