お笑い牧師・田崎敏明Blog

アホな記事、真面目な記事、取り混ぜてお届け中。

真実だからそのまま語れば良いというものではない。人が聞いて分かるように語ろうよ。

私は身長が180センチです。
それは真実です。


しかし外人さんの前で、
「180センチ」
と語っても相手は戸惑います。
でも、
「5.9 feet」
と言ってあげれば、「ああ」と納得します。
その気遣いが大切ではないでしょうか。

クリスチャンの中には、
聖書の言葉は真実だからと、
やたら聖書の言葉そのものだけを語って
自分だけ納得している人たちもいます。


しかし、どんな真実も、
人が聞いて分かるように、
たとい少し言葉を変えてでも、
伝えることの方が大切だと思いますよ。

子供たちが書いた神様への手紙が、最高!!

【かみさまへのてがみ】
(訳 谷川俊太郎 サンリオ社)より。
子供たちが書いた神様への短い手紙を収録した本です。
最高!! 頭の硬~い大人たちよ、
子供たちの前に跪けっ!
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「せかいじゅうの ひとを 
みんな あいするなんてとても たいへんでしょうね」


「あなたって ほんとにいるの?
 そうはおもってない ひとたちも 
いるのよ。もしほんとに いるんなら、
あなたがすぐに 何とかしなさいよ。」


「あなたは どうして 
じぶんがかみさまだって わかったんですか?」


「あなたは きりんを 
ほんとに あんな ふうにつくりたかったの? 
それとも あれはまちがいですか?」


「ゆきが すごく つもって、 
がっこうが やすみになったときのこと
おぼえてますか? また あんなふうにしてもらえないかなあ。」


「ひとつしりたいことが あります。
あなたはじぶんのしていることが
 きにいっていますか。」


「くにぐにの まわりに 
せんなんかかいたのは だれですか?」

【延岡東海教会宣言】 何を言われようと、これがうちの教会だっ(笑)

【延岡東海教会宣言】
①延岡東海教会は、その人の髪の長さ、本数で差別することはありません。
②延岡東海教会は、クリスチャンでなくても普通に大きな顔をして出席できます。
③延岡東海教会は、その人の信条、宗教、政治理念、国籍等で、差別することはしません。
④延岡東海教会は、礼拝会の途中で帰らなくてはいけない方は、遠慮せず前もってお申し出ください。時間が来たら、みんなで玄関までお見送りしますっ。
⑤延岡東海教会は、礼拝会等の時でも、「ごめんちょっと遅れる」とお電話いただければ、「○○さんが来るまでちょっと待ちましょう」と言って、待っています。せっかく来られるんですからねっ。もし遅れて来ても、「来たぞっ」と大きな顔して入って来てください。
⑥延岡東海教会は、牧師の説教中もし寝る人がいても、叱りません。もしそういうことがあれば、それはそんな説教する牧師の方が悪いのです。
⑦延岡東海教会の牧師は、一部で「レベルの低い牧師」と噂されているようです。安心してください、その通りですから。ですが、牧師はそのことを誇っております。
⑧延岡東海教会は、変わった人達ばかりではありませんか?と心配しないでください。安心してください。あなたも充分変わっていますから。
⑨延岡東海教会は、牧師に「BBQ」と耳打ちすると、たいがい「あっ、来週の礼拝会の後やろうか」と返事が返ってきます。
⑩延岡東海教会は、牧師はいつも説教を考えずに前の講壇に立つみたいです。でも不思議と説教の時間、皆で盛り上がります。
⑪延岡東海教会は、メンバーの絶対数が少ないため、時には、日本人より外人さんの方が多い時があります。「ああ、私、英語できないっ」と心配しないでください、牧師もまったく英語できませんが、それでも何とかなっているのです。
⑫延岡東海教会は、メンバーの絶対数が少ないため、一年に一度ぐらい何かの拍子に、出席者があなただけの時もあるかもしれません。心配しないでくださぃ。その日、神様はあなたにだけ特別に何かを語ろうとされているのです。
⑬延岡東海教会は、いつも教会を開けています。いつでもお電話してからお越しいただければ、お相手いたします。特別深いことは語ってあげられませんが、話ぐらいは聞いてあげられます。
⑭牧師があなたをずっとがん見しても、恐れないでください。それは牧師の癖ですし、そんな時でも、牧師はな~んにも考えていませんから。
⑮ここまで読んだあなた。神様の祝福があなたにあります。

開拓伝道、号泣する感動のドラマもある…

 これは、もう20年以上も前になりますが、
東北の一関市で開拓伝道していた頃。

ある日の教会の礼拝会に、
ご年配のYさんが初めて来られました。


 失礼な言い方になりますが、
その顔の表情から、
これまでいろいろと悪いこともされてきた
そのような感じでした。
いえ、人は誰でもそうですが。
ご本人もそういうことを告白されました。


次の日曜日から、Yさんの奥様も
一緒に礼拝会に集い始められました。
これまた失礼な言い方ですが、
『この亭主にはずいぶんと苦労させられました』
という感じの表情でした。


その後Yさんは、イエス・キリストを信じて
洗礼も受けられました。
奥さんは、一緒に礼拝会には来られますが、
まだ信じようとされませんでした。
なんだかその気持ち、他人にも分かる気がします。
さんざん苦労をかけられた亭主が先に
イエス様によって救われ、喜んでいるのですから…。
でも、ご夫妻とは、
礼拝会後に庭で一緒に秋刀魚を焼いて食べたり、
とても良き思い出があります。


そのうち、ご夫妻は、
お子さんのいらっしゃる関東に引越して行かれました。
その時もまだ奥さんは、
イエス様を信じる決心はされていませんでしたので、
私たちは、それだけは心残りでした。


しかし、それからずいぶん経ったある日のことです。
ご夫妻が関東で集い始められた教会の牧師さんから
丁重なお手紙をいただきました。
その手紙の内容を要約すると、こういう内容でした。


「こちらの教会に通い始められて、
しばらくしてから奥様もイエス様を信じて
洗礼を受けられました。
今お二人は毎週日曜日の礼拝に来られて、
うちの教会の中心となってくださっています」


私は手紙を手にしたまま、号泣しました。
 開拓伝道、それは生易しいものではない。
実際、私、出来てないし…
けれど時として、こうした歓喜が、
原動力ともなるのです。

宗教とか、信仰とかは、生活そのものだっ!

「私は宗教は嫌いです。
キリスト教は宗教ではありません」
というクリスチャンの言葉をよく聞くし、
私も言うことがあるので、
その意味するところはよく分かる。


でも、そう力説すればするほど、
それ自体がもう
「キリスト教は宗教ではありません」教
なのかもね。


ある文化人が、
アメリカの先住民の方達の地域に行き、
「あなたがたの宗教は何ですか?」
と聞いたら、
「ここには宗教はない。
生きること自体が宗教です」
と答えられたといいます。
かっこいい…。


宗教とか信仰とかいうものは生活そのものだ。

キリスト信仰も、そのようでありたい。