お笑い牧師・田崎敏明Blog

アホな記事、真面目な記事、取り混ぜてお届け中。

お坊さんと宮司と牧師の、バトルトーク会っ笑

昨日は、年末恒例、
お坊さんと宮司さんと私との3者での、お寺での、
年忘れお笑いトークライブでした。
それぞれの信仰のことも話つつ、
笑い話を挟みながらの信仰です。
私はギターの弾き語りも一曲。
皆さん、熱心に話を聞いてくださいました。
有難いことです。


他の宗教者の人と仲良く出来ない宗教者って、
私には興味ない。


信仰に熱心ならば良いというものではない。

「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」 (聖書)


ここ延岡市は、時のキリシタン大名だった大友宗麟が、
キリスト教国を築くために、
宣教師を伴って攻めて来た土地です。
様々な境遇の中を通り、一国の王でありながらも、
自らの世路さと葛藤し、魂の救いを神に求めた
大友宗麟は私にとって、とても興味深い人物です。


しかし、延岡に攻め来た時に、宗麟は、
宣教師から勧められたのでしょうが、
土地の神社仏閣を全て焼き払ってしまいます。
そんなことをする人たちの教えを、
どうして人々は受け入れようとするでしょうか?


また、宗麟の妻は大きな神社の神官の娘でした。
宗麟の信仰に反対する妻に、宣教師たちは
「イザベラ」
という軽蔑したあだ名を付けます。
彼らの報告書にもそう書いています。
「イザベラ」とは、
聖書の中の「悪女」呼ばわりされている女性です。
そんなことをする人たちの教えを、
どうして人々は信じようとするでしょうか?


人は、特に日本人は、まずは、
その人の口から出る言葉ではなく、
その人の態度から出るものに注目します。


もちろん宣教師の方々のご苦労の上に、
今の日本の教会があるわけですが。

値段をつけて、「説教」や「御言葉」を販売することには…どうも違和感を感じる。

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」 (聖書)


以前、聖書の御言葉のカードが、
けっこうな値段で売られてるのを見て、
びっくりしたことがあります。
また牧師の礼拝会などの説教テープ等も
販売されていたりしますが…まっ、いいんですが、
私個人としては、どうもそういうのものに違和感を
感じています。


時々、初めてお会いした牧師さんなどからも、
「実は田崎牧師のブログ(facebook)に書いてある
説教内容等、引用させてもらっています」
と言われることがあります。私は、
「ああ、どうぞどうぞ、使ってもらえたら感謝です」
と返事しています。
私のfacebookには、「全ての記事のシェアはフリー」
と明記していますし、このブログの記事も「引用フリーです」
牧師の説教というものは、全ての人の、
特にクリスチャンの共有財産であるべきです。
(あっ、私の悪口言うための、文脈無視の引用は止めてね…笑)


牧師の説教というものは、神様から与えられるべきです。
神様から与えられたのなら、それは神様のものです。
神様のものに値段を付けるなんて、
私にはできません。

負けて勝つ、一歩下がって勝つ。

人から何かされて、
「なんていうひどい奴だ。レベルの低い奴だっ」
と喧嘩腰になるようでは、
あなたも、その相手のレベルと同じということ。


いろいろと言う人というのは、
あなたが何をしても言うものです。
気にしないことです。
まことの勝利とは、
陰で何を言われようが、
こちらまで悪口を言い返さないことです。


「悪に負けてはなりません。
かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」

聖書 ローマ人への手紙12:21

愛せなくても、許せなくても…自分を責めないで

牧師として30年ほどになり、
 多くの方々のお話を聞かせていただいて、今は、
「愛せなくても、大丈夫ですよ」
 「許せなくても、大丈夫だよ」
と声をかけてあげられるようになりました。
それでも、イエス・キリストは愛してくださいます。

もちろん、イエス・キリストは、
 「愛しなさい」「許しなさい」
と説きます。
でも、イエス・キリストは、
 実は人間の、愛せない苦しみ、
 許せない苦しみを、
その身に背負って十字架についてくださったのです。


「私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、
私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯されませんでしたが、
すべての点で、私たちと同じように、
試みに会われたのです」

 (聖書 へブル人への手紙4:15)