お笑い牧師・田崎敏明Blog

アホな記事、真面目な記事、取り混ぜてお届け中。

パウロに学ぶ信仰の奥義

あの偉大なる使徒パウロは、自分の中に、
どうしても神様に取り去って欲しい弱さを
持っていたようで、そのことを神様に祈りました。
(それは何かの病気だったのかもしれないとも言われています)
しかし、神様はあえてそのパウロの弱さを
取り去ってくださらなかったのです。
そして神様はこう言われました。


「わたしの恵みは、あなたに十分である。
というのは、わたしの力は、
弱さのうちに完全に現われるからである。」
と。(聖書 コリント第二12:9)


そしてそれを聞いたパウロも、
「私は、キリストの力が私をおおうために、
むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」

と言っています。


また、パウロはその弱さは、
自分が決して高慢にならないために与えられた
トゲであるとも言っています。
ここにまことの信仰の深き奥義があると思います。

分かりずらい説教をする牧師は、職務怠慢だ。

初めてキリスト教会に行った方の感想で多いのが、
「教会の皆さんは優しかったけど、
牧師さんの説教は、
何を話しているのか分からなかった」

というもの。
それは笑い話にしてはいけない。
それは、牧師の怠慢だ。
誰にでも分かり易く聖書を説く訓練を自己に課すべきだ。


難しい言葉を使う者が、頭が良い者ではない。
難しいことでも、分かり易い言葉で説ける者が、
頭が良い人なのだ。


私の説教は、分かり易いと思う。
私の場合は、頭が良いからではなく、
頭が悪いから、難しい言葉を使えないだけだが。
(笑い話ではなく本当にこと)
しかし、そのことを神様に感謝している。

大友宗麟を通して、伝道小説執筆中です。

自著「日向(ひなた)の大友宗麟 もういっぺん」
が出来た…表紙がっ! 
中身はまだ、400年の時空を超えて
よみがえってしまった宗麟が、うちの教会に来て、
うちの妻から
「宗麟さん、
あなたずいぶんと奥さんを泣かせたそうじゃない」
と怒られているところまでしか出来ていないが…。


その昔、大分のキリシタン大名はであった宗麟は、
キリスト教の理想郷を築くために、
ここ延岡の無鹿にやって来ました。
私の牧師室の窓から正面に見える
川向こうの地がその無鹿です。
その所で実にいろいろなことがあり…。
そのことを通して、伝道小説を書こうとしています。


昨日のこと。近くの町に住むという一人の青年が
突然フラッと来て、
「入っていいですか」
と言って教会に入って来た。


彼は、大友宗麟やキリシタンにとても興味があるという。
今私が宗麟物を書いていることなど知らないはずの彼なのだが。
いろいろと語り合い、そしてまたフラッと帰って行った。
も、も、も、もしかして宗麟が青年の姿を取って、
本当に来たんじゃないよね。私の執筆具合を確かめに…。
そういえば彼は、
「信長公はキリシタンには寛容だった」
と、えらく褒めていたなぁ…


人をさばくということは

イエス様は、
「人をさばいてはいけない」
と語られた。


人は誰でも自分が正しいと思っている。
その自分の正しいと思っている
「自分のものさし」で人を計ることが、
人をさばくということだと思う。


自分のものさしでは、
自分を計るべきで、
人様を計るべきではないと思う。

両手を開いて、あなたを待っておられるイエス様。

「主はあなたがたに恵もうと待っておられ、
あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。
主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。
主を待ち望むすべての者は。」

イザヤ書30:18


イエス様が、あなたを待っておられます。
あなたが、イエス様に求めることを、
待っておられます。


親が手を開いて、子供に、
「こっちに、おいでぇ」
と言うように。