お笑い牧師・田崎敏明Blog

アホな記事、真面目な記事、取り混ぜてお届け中。

大友宗麟「私のように弱い者はどうしたら救われる?」

「私のような弱い者はどうしたら救われる?」
 遠藤周作著「王の挽歌」の中で、大友宗麟が、
 妻の奈多夫人にそう問う場面があります。


大友宗麟は九州の半分以上を支配した、
 名のある大名でした。しかし、実際は、
 事あるごとに逃げ出すお殿様でもありました。
ある時、城内から宗麟がいなくなり、
 家中は大騒動。結果、海岸端の小さな小屋の中で、
おびえている姿で発見されました。
 原因は、奥さんの奈多夫人から、浮気の数々や、
 日頃の行状を叱責され、
 怖くなって逃げ出したとの通説も。
そんなぁ…と思うかもしれませんが、
いろいろ調べてみると、さもあらんという感じがします。
たぶん実際そうだったのでしょう。
 偉そうにしてても、奥さんが怖くて、
 家出する九州の支配者!(笑)
それ以外に立場から責任の重圧から逃避行して、
 酩酊、遊興にふけっていた時もあるようです


年を重ねると、地位のある方、名誉のある方、
お金もある方々とも親しく接っする機会も多くなる。
そして、そういう方々を知って思うのは、失礼ながら
「たいしたことない」
ということです。(もちろん私自身もです) 
 尊敬する部分も多々あり、見習いたいとも思います。
しかし、人は皆総じて、欠けのある、弱さのある者たちです。
その所をちょっと突っつかれると、倒れてしまう者たちです。
ですから、人は必死に自分の弱さを隠そうとします。
それは、あくまでも「逃げ」でしかありません。


そしてその後、大友宗麟は、
イエス・キリストの元へと駆け込んだのです。
それは逃げたのではなく、身の避け処、
まことの隠れ場を知ったのです。


・・・・・・・・・・・
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、
 私のところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
イエス・キリストの言葉

私たちの周り、よ~く見たら神様の恵みで満ちている

聖書の中に、「キュビト」という
古代の長さの単位が出てきます。
1キュビトは、腕の肘から指先までの長さです。
 
人の肘から指先までの長さは、
本当にちょうどよく出来ていますよねっ。
肘を曲げると、指はちょうどピッタシ、
口元に来るのです。食事がとてもしやすいのです。


もし、肘から指先までが1.5キュビトもあったら、
食べ物が口から遠く離れてしまって大変だ。
そのように私たちの身体を造ってくれた
神様に感謝です!!


 心を澄ましてよ~く周りを見ると、
私たちの周りには、神様のに恵みが、
いたる所で、キラッキラと輝いています。


「不信、不満」の心ではなくて、
「感謝」の心でも物事を見てみましょう。

別に髪が薄いわけではないのだっ!

「いいか、お前の髪が少ないわけじゃないんだぞ。
他の奴らの髪が多過ぎるだけなんだぞ。
よしっ、さぁ頑張れっ。行け、行くんだ…」
↑ 自分に気合っ!!(笑)


さて、私の若い頃は、三無主義世代と言われた。
「無気力・無関心・無責任」
だ。その前の全共闘時代の熱き若者との
対比ということもあったと思います。
 現代の20歳前後の若い世代を表す言葉は、
何なのだろう? あまり聞かない気もするが…。
 
今、私は60歳になったが、
相変わらずの三無である。今は、
 「金なし、髪なし、甲斐性なし」
であるが…

ゆめゆめ「自分だけが正しい」などと思わない。

聖書には、
「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを
与えられるからである。」
(第一ペテロ5:5)
と書いてあります。


私たちを愛し許される神様ですが、
私たちの高ぶりはお嫌いになります。
ゆめゆめ、
「自分だけが正しい」とは思い込まないことだ。

本当の不動心というものは、

「不動心」などという言葉は、
 今はもう使わないかもしれなのだが…
不動心とは、何が起こっても心を動かさずに、
たんたんと生きること…ではない。


 嬉しいことがあったら、素直に喜べる心。
 悲しいこがあったら、素直に涙を流して悲しむ心。
 自然な心、それこそが真の不動心なのだと思う。
 「こうでなければならない」
 「こうしなければいけない」
という「宗教」や
「マインドコントロール」によって、
 自然な心の動きを無くしてしまうという意味での
偽物の「不動心」は、とても怖い。


小さな幸せに大きく喜ぶ…
そんな心をいつも持っていたいものだ。


聖書には、
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」
と書いてあります。